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静岡出身の有名人や歴史上の人物!あの人も静岡出身だった

2018.4.15

私が暮らす静岡県は、標高差があり寒暖の差が激しい地域であり、うなぎや静岡おでんなどの美味しいものも多いところです。

また著名人や歴史上の人物が多く輩出されている地域で、歴史に関わる大きな偉業を成し遂げた偉人達が多く、その名は現在の日本人の多くの人が知る人物ばかりです。

そんな静岡出身の有名人たちをこちらで5人、厳選してご紹介したいと思います。

静岡と言えば?歴史的有名人は今川義元!

今川氏親の5男として生まれた「今川義元」
母親である寿桂尼(じゅけいに)は氏親の正室で、今川家4代に渡りその政務を行ってきました。

ですから、義元は焦慮になるために修行をし、栴岳承芳(せんがくしょうほう)と名乗っていました。
ですが、兄二人が同日になくなるという悲劇が起こり、今川家では跡継ぎ争いが勃発し、腹違いの兄と家臣を二分する戦いをし、勝利をおさめました。

当主となった義元は、様々な改革を行います。
その一つとして、武田信虎の娘と結婚しますが、このことが北条氏との抗争を生み、「河東の乱」となります。
9年も続いた「河東の乱」は武田信玄の和睦により収まり、武田家、北条家の間で三国同盟を終結させます。

この三国同盟が結ばれる前から、義元は西側の三河国への侵攻を行い、三河国を狙う尾張の織田家と戦いを繰返していました。
戦いに勝ち、その後尾張国への侵略を狙いましたが桶狭間の戦いにより、倒れてしまいます。
今川義元、41歳の生涯に幕を閉じました。

静岡の歴史的有名人、井伊直政について。

井伊直政は、1561年、今の静岡県西部にある遠江国井伊谷という場所で生まれました。
井伊家の24代目当主として徳川家康の家臣として活躍し、後に徳川四天王の一人に数えられた人物です。

直政が生まれたころ、父親である井伊直親が今川家によって暗殺されてしまい、消滅寸前でした。
その状況を救ったのが井伊直虎です。
直政は直虎の養子と言う形で井伊家を継ぐこととなります。

直政は外交手腕に長けていて、特に関ヶ原の戦いの前には全国の大名へ調略をおこなって、多くの武将を東軍に参加させることに成功しています。

静岡の有名人と言えばやっぱり豊田佐吉!自動車開発までの歴史と道のり

豊田佐吉をご存知ですか?
豊田佐吉とは、トヨタグループの創業者です。
佐吉は、母親が効率の悪い手織り機で木綿を織る姿を見て、織機を開発しました。
これが、日本初の動力織機です。

1967年、2月に農業兼大工職人の父と、母親の元に産まれました。
小さいころから、一人で物事を深く考えこむタイプだったと言います。

1906年に豊田式織機株式会社を設立しましたが、ほどなく業績不振により同社を退社させられてしまいます。

その後、世界各地を回り、日本の産業を発展させるために自分は何をすべきかを考え思いつきます。
それが、現在のトヨタ自動車株式会社の前身である豊田紡績株式会社です。

静岡から世界へ!河合小市とピアノの歩み

河合小市は、少年時代から山葉寅楠の元で日本国産のピアノ作りに取組んだ人物です。

「完全な楽器を造るには完全な音楽原理を知らなければ」
と言う信念の元に、ピアノ、オルガン、ハーモニカなどの開発・製作につとめました。

河合小市はピアノの製造にかける情熱だけで、「河合楽器研究所」を成り立たせていたと言えます。

戦争があり、技術者たちが戦地へ向かいピアノ工場は軍需工場となってしまいましたが、河合小市のピアノへの情熱はなお続くものでありました。

戦争や工場の火災などの苦難を乗り越えつつ、1948年にピアノ・オルガンの製造再建へと歩みを進めることができました。
そして、戦後初のグランドピアノ500号を製作するにまで至ったのです。
その後、1955年に河合小市は病に倒れてしまいます。
ですが、河合小市の「世界一のピアノを作りたい」と言う思いを引き継いだ河合滋が2代目社長に就任されます。

河合滋の信念は「音楽は万人のもの」
持ち前の実行力を発揮し、創造性豊かに会社の運営を行ってきました。

スズキの創業者、鈴木道雄の人物像について

軽自動車のトップメーカーである「スズキ」
その創業者である鈴木道雄は1887年、静岡県浜松市の農家の次男として生まれました。
織物産業が盛んであった浜松は織物機械の修理をおこなう「織物大工」と呼ばれる職人が存在し、鈴木道雄氏も、織物大工として活躍してきました。
鈴木道雄は、修理に出された織物機の壊れた箇所だけを治すのではなく、その機械を創意工夫によりグレードアップさせて納品するという工夫を凝らし、人々の信頼を得ながら仕事と発明・開発をしていったそうです。

鈴木道雄はナゼ織物機械から、自動車の開発を思い立ったのでしょうか?

織機は一度納品すると、長い期間修理をしながら使い続けられます。
これでは事業の発展を見込めないと感じた鈴木道雄は、小型の自動車を作ることを思いついたのです。

同じ織物出身の豊田佐吉氏が乗用車を作れたなら自分にも自動車を作ることができるであろうと考えたのです。

それから、オートバイエンジンの研究をスタートさせ、1939年には試作車を完成。
ですが、日本が戦争へと入って行ってしまったため、ここで研究を中止せざるを得なくなってしまいました。

「金もない、人もいない、そんな時こそ頑張ってやり続ける価値がある」との信念で自動車開発を進めた鈴木道雄。

彼は常に次を考え、先見の明があり、努力を惜しまない人物だったと言えるようです。

この記事の編集者

チェスナッツロード編集部

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